文化審議会(佐藤信会長)は11月20、七代目小川治兵衛(植治)の作庭よる仁和寺御所庭園(京都府京都市)、知恩院方丈庭園(前同)、神仙郷(神奈川県足柄下郡箱根町)の3件を名勝に、表千家の茶室「残月亭」「不審菴」を写した和泉市久保惣記念美術館茶室庭園(大阪府和泉市)と津嘉山酒造所庭園(沖縄県名護市)の2庭園を登録記念物の名勝地に、それぞれ新たに指定するよう萩生田光一文部科学相に答申した。近く答申通り官報で告示される見込み。
今回答申されたのは、史跡名勝天然記念物の新指定18件、追加指定等35件、登録記念物の新登録6件、重要文化的景観の新選定5件、追加選定等1件。名勝指定は、文化財保護法により芸術上や観賞上の価値の高い庭園などについて文部大臣が行う。登録記念物は史跡、名勝、天然記念物という指定を補うために設けられた文化財保護法に基づく制度で、保護すべき意義があると思われる文化財を対象としている。
名勝の新指定3件と登録記念物の名勝地関係新登録2庭園に対する文化審議会の答申内容は次の通り。
名勝
●仁和寺御所庭園(京都府京都市)
仁和寺御所庭園は京都盆地の北西部にある仁和寺境内南西部の「御殿」と呼ばれる区画に所在する。仁和寺は仁和4年(888)の宇多天皇(867~931)による金堂創建供養をもって開創とし、延喜4年(904)に宇多法皇が境内の南西部に僧房(御室)を造営して初代住職となり、以後仁和寺は「御室御所」と称されるようになる。
庭園が現在の姿に整えられたのは、明治末期から昭和初期にかけてで、主な部分の整備は七代目小川治兵衛(植治)(1860~1933)が請け負った。庭園は北庭、南庭、前庭の3つに大きく分かれるが、そのほかにも建物の間に複数の中庭がある。北庭の基本的な空間構成は江戸期のものが引き継がれていると考えられ、園池、園池背後の高台に建つ茶室飛濤亭、その向こうに見える五重塔の姿が一体的な景観を形成している。植治によって新たに整備された南庭は、宸殿の南に広がる白砂敷の平庭で、桜と橘が植えられている。
同じく植治による前庭は大玄関前の空間で、白砂が敷かれ、アカマツやヤマザクラ等が植栽されている。
仁和寺御所庭園は近世以来の部分も含め、近代以降に全体が整えられた庭園で、建物と庭園がよく調和しており、芸術上及び観賞上の価値、日本庭園史における学術上の価値が高い。
●知恩院方丈庭園(京都府京都市)
知恩院方丈庭園は,京都盆地の東を区切る東山の一部を構成する華頂山(標高約220m)の中腹に位置する。知恩院は浄土宗の開祖法然を開山として、弟子の源智によって文暦元年(1234)に創建された寺院で、浄土宗の総本山である。
現在の境内は、基本的に寛永10年(1633)の火災後に復興された堂舎の配置を踏襲しており、史料から寛永19年(1642)に今ある庭園の原形が造られたと考えらる。その後幾度かの改修があったが、寛政11年(1799)刊行『 都林泉名勝図会』との比較から、遅くとも18世紀末にはほぼ現在の地割になっていたと見られる。
庭園には2つの池泉があり、小方丈の南,大方丈の東に位置する北池と、大方丈の南に位置する南池が縁先でつながって、庭園と建築が空間的に調和している。屈曲した石組護岸、豪壮な滝石組、巨大な岩島や景石、池中の石燈籠等が特徴的であり、斜面上部に建つ山亭の前からは京都の街を一望できる。
知恩院方丈庭園は江戸時代に整えられた庭園で、往時の姿を方丈建築と一体的によく伝え、日本庭園史における学術上の価値、芸術上及び観賞上の価値が高い。
●神仙郷(神奈川県足柄下郡箱根町)
強羅は箱根町のほぼ中央部に位置し、早雲山(旧山体)の山体崩壊による火砕流が形成した扇状地で、近代に発展した別荘地である。神仙郷は、この地域の標高約600~620mの斜面に、世界救世教の創始者である岡田茂吉(1882~1955)が、「地上天国のひな型(模型)」として、多くの人々への公開を念頭に造営した庭園である。
昭和19年(1944)、茂吉は実業家藤山雷太の旧別荘を入手して「神山荘」と命名し、さらに周辺の別荘用地なども買い足して「神仙郷」の造営を本格的に開始した。
園内には、「観山亭」「萩の家」「日光殿」、茶室「山月庵」「箱根美術館本館」などの建造物が建てられ、また露出する巨大な岩石を活かした「石楽園」、「観山亭」から下がる傾斜面の「萩の道」、「山月庵」周辺の「竹庭」や「苔庭」などがつくられたほか、早雲山の豪壮な山並みと相模湾の遥かな水平線を展望することができる。
神仙郷は、強羅に独特の立地条件を活かしつつ、茂吉が理想とした「地上天国」を具現化した庭園で、その意匠は独特で優れ、芸術上及び観賞上の価値、日本庭園史における学術上の価値が高い。
登録記念物の新登録 名勝地関係2庭園
●和泉市久保惣記念美術館茶室庭園(大阪府和泉市)
和泉市久保惣記念美術館茶室庭園は、和泉市内を南から北へ流れる松尾川沿いに位置する。久保惣(久保惣株式会社)は綿業を営んだ会社で、二代久保惣太郎(1889~1944)は茶の湯を好み、昭和12年(1937)に「惣庵」と「 聴泉亭」の2つの茶室を自邸に建てた。2つの茶室のうち、「惣庵」は表千家の「不審菴(ふしんあん)」を,「聴泉亭」は同じく「残月亭(ざんげつてい)」を写したもので、露地についても表千家露地の主要な部分の空間構成が写された。
聴泉亭露地の外腰掛、中潜の配置や意匠は基本的に表千家の残月亭前の空間と同じものになっており、惣庵露地との境界に設けられている梅見門も表千家露地の写しとなっている。惣庵露地の内腰掛の位置は不審菴露地とやや異なるものの蹲踞は茶室に対して同じように配置されている。昭和52年に久保惣は事業を終了し、現在茶室と庭園は美術品とともに美術館が管理している。
和泉市久保惣記念美術館茶室庭園は茶の湯を好んだ実業家が宗家の茶室と露地を一体的に写したもので、その意匠は特徴的であり,造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
●津嘉山酒造所庭園(沖縄県名護市)
津嘉山酒造所庭園は名護市西部の旧名護町市街地に所在する。創業者の津嘉山朝保(1880~1945)は、昭和2年(1927)に現在の地を取得すると酒造所兼住宅を建築し、泡盛「國華」の製造を開始した。庭園もこの頃造られたと考えられる。戦争による破壊を免れた酒造所は現在も現地で泡盛の製造を行っている。
酒造所の敷地は長辺が北東に傾いた長方形で、通りに面している南西側に正門を構え、中央南寄りに主屋、北に酒造施設が配置されている。庭園は主屋南西部の前庭と主屋東南部の主庭から構成され、主庭の園池の形は細長く、沖縄本島を象ったとされる。主屋側から見た時、右奥が沖縄本島の北部にあたり、最北端の辺戸岬や中央部の伊江島にある城山を石組や立石で表しているという。園池の護岸には沖縄本島北部で産出する古生代石灰岩を用い、対岸には「昭和五年■■」(■■部分は判読不能)と刻まれた石燈籠を配している。
津嘉山酒造所庭園は昭和初期に酒造所に造られた庭園で、その意匠は特徴的であり、近代の沖縄県における造園文化の発展に寄与した意義深い事例である。
新指定・新登録の答申物件については、以下の文化庁のサイトを参照
https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/92657301.html